年に1回の新潟県妙高市の滞在。昨日、少し足をのばして、長野県佐久市にある「龍岡城五稜郭」に行ってきました。
龍岡城は、函館の五稜郭と並び、日本に2つしかない星形(五角形)の城郭なんですが、この城を建てた人物の人生がとても面白いので紹介したいと思います。
彼の名は、大給恒(おぎゅう ゆずる)。幕末までは松平乗謨(のりかた)という名の大名でした。

江戸で生まれましたが、父の隠居に伴い13歳の若さで家督を相続し、藩主に。彼が継いだ当時の藩名は「奥殿藩(現在の愛知県岡崎市)」で、領地の大部分は飛び地として長野県佐久郡田野口にありました。幕末の尊王攘夷運動など政情不安な中、彼は「いざという時は領地へ移ろう」と決意し、幕府の許可を得て信濃に引っ越し、田野口藩となります。
信濃に拠点を移したまさにその年、彼の優秀さが評価され、24歳の若さで幕府の要職「若年寄」に大抜擢されます。しかし、幕府内の激しい政治闘争に巻き込まれ、開国派・近代化派だった彼は、鎖港を主張する上司と対立してわずか1年でクビになってしまいます。
しかし、この「冷や飯」の期間が彼を輝かせます。幼い頃から西洋の軍学や科学に強い関心を持っていた彼は、フランスの築城術を独学でマスター。1864年、自らの知識を注ぎ込み、最新鋭の星形要塞の建設に着手します。これがのちの龍岡城五稜郭です。

城を建てている最中、彼のフランス式軍事知識などの専門知識が幕府に再び必要とされ、陸軍奉行に奇跡のカムバック。ついには最高権力者である老中や陸軍総裁にまで上り詰めました。
さらに彼の凄いところは、幕府が滅びたあとの明治新政府でも大活躍した点です。主な功績は以下の2つ。
①日本の勲章をデザイン「勲章制度の祖」に明治政府が国家の功労者を表彰する制度を模索する中、フランス語や西洋の諸制度に明るかった大給恒が調査を担当。日本初の国家勲章である「旭日章」などの美しいデザインを、なんと自ら筆を執って描き上げました。
②博愛社(現・日本赤十字社)を設立1877年の西南戦争の際、敵味方の区別なく負傷者を救護する組織「博愛社」を佐野常民らとともに立ち上げました。表舞台で引っ張る佐野が「父」なら、裏方で実務を支え続けた大給は「母」。のちに「日赤の母」と呼ばれるほど、深い慈愛で組織を育て上げました。
いやあ、こんなにも立派な人がいるんだなと、現地に行って初めて知って感心しました。自分が知らないだけで、歴史の裏舞台には魅力的な偉人がまだまだいるんでしょうね。
